fiction/non-fiction

 かなしいをかなしいと言ってしまえばそこですべてが完結してしまう気がして、すなおに「かなしい」をくちにすることが憚られた。それでも心を満たすのはかなしみにちがいなく、すこしでも吐き出したくて舌で転がし、唇に乗せてみる。言葉はするするとたやすく私の体の外に出ていき、誰の耳に届くこともなくつめたいへやの壁にぶつかって溶けた。
 こうして一つずつ、たいせつな何かを失くしていくのだろうということを、年齢を重ねるごとに噛みしめる。当り前のことを当り前である、と、割り切れるほどに私はまだ成熟してはいなかったらしい。打ちのめされたきもちで、沈んだ心を持て余しながら、昨夕は膝を抱えて古い映画を観ていた。家族がテーマの、悲喜劇的な物語だ。ときおり、くすりとわらいが洩れた。そこで芝居を打っている人々はみな快活で、現代ではややオーバーと取られるだろう演技を――おそらくは演出のためにわざと――こなしては観客をたのしませようとしている。たのしいな、と、すなおに思った。けっして明るいテーマではないのだけれど、私にとってはかすかな救いのようだった。
 生身の人間をみるのがつらくて映画から離れていたのだけれど、ようやくさいきんになり、すこしずつ、みられるようになってきた。それでも集中力が持たないから半分ほどでいちど切り、しばらく間をあけてから再生をする。作品にたいする冒涜のようで、停止ボタンを押すときの私はいつもとても申し訳ないきもちである。プツン。と切れる映像、音声。現実が流れこんでくる瞬間。ほっと息をついて、珈琲を啜り、煙草を喫む。

 現実から逃れたくて本を読んでいるのか、映画を観ているのか。現実が流れこむ瞬間を感じたくての行為なのか、もうわからなくなっていた。どちらでもよい、現実ではない何かに没入しているときは心が平坦になる。読書や映画がその“何か”だ。それでよかったし、それ以外なにも考えたくはなかった。すくなくとも今は。

 けさは久しぶりに5時に起き、軽くへやの掃除をした。放置に放置を重ねていたへやはずい分と乱れていた。あちこちに溜まった埃は、不快だった。不快を不快だと思えるていどには神経が正常に近づいているのかもしれない。
 昨夕の映画に出てきた、着物を着た登場人物の所作がとてもうつくしく、それを真似て足はすり足、袖口をおさえるようにして腕を持ち上げ、指先の先端をこまやかに動かしてみた。ゆっくりとした動作はゆっくりとした時間を連れてくる。ああ、と私は合点する。私はフィクションを現実に取り入れたくて様々をみているのかもしれない。くだんの登場人物の女性は不倫をしていて、その設定を私生活に重ねることはできないだろうとは思うけれど。