こころ・短歌『プリズム』vol.1

 メンタルケアの当事者、家族、経験者によるネットプリント『プリズム』のvol.1について、はじめて読んだときからずっと感想を書きたいとおもっていて、しかしうまく言葉が浮かばず、現在進行形で、どういうふうに書けばより伝わりやすいのだろうということを考えながら、ぱちりぱちりとキーボードを打っている。
 『プリズム』は、メンタルに何らかの治療を必要とするかた、及びそのご家族のかたが集まってつくられた短歌のネットプリントである。この企画のツイートを拝見したとき、読まなきゃ、と、まず、思った。配信されてすぐに印刷し、冊子のかたちにホチキスで留めて、ゆっくりと読んでいった。
 途中で、過去の出来事がふっとフラッシュバックしたり、涙が出そうになったり、しながら、巻頭言、短歌各七首、コラム、Q&A……。最後にページを閉じたときに思ったのは、わたしのこれからの人生で、このネプリはきっと何度も読みかえすだろう、ということ。
 わたしにとってとてもたいせつなものとなった、ということ。

 わたしは十年以上、精神に病を抱えている。短歌を始めたのは(正確には、再開したのは)、病気が悪化して、すきな読書ができなくなってしまったことが一つのきっかけだった。
 三十一文字で描かれる短歌の世界は、三十一文字それだけで完結しており、独特のリズムのおかげか読んでいてとてもたのしい。そしてあらたまって机に向かわなくとも、たとえばベッドに臥せっていても、メモ帳やノートやスマホなどに三十一文字を書くことができる。
 短歌をされているかたの中には、おなじように心(精神)を患っておられるかたがいる。そういったかたたちのくるしみや、かなしみの断片を知るうえで、『プリズム』は、わたしにとって、“必要な”ものだったのだ。
 この病のいちばんにつらいところは、目に見えない分周囲の理解が得にくく、その結果生まれてしまう誤解や、偏見。
 長引けば長引くほどに孤立してゆくわたしたち(あえて、この呼び方をさせていただきます)が、もっともくるしいと感じるのは、じぶんたちのくるしみを共有できない“さみしさ”なのではないかと思う。
 『プリズム』を読んで、わたしはわたしの抱えている“さみしさ”が、かすかに薄れていったのを感じた。仲間、というのは失礼だし、同士ともちがうし、なんといったらよいのだろう。おなじサークルの中にいる者どうし、というのがいちばん表現として適切だろうか。
 一つのサークルの中で集まって、じぶんの気もちを各々短歌で表現する。それぞれが抱えている“さみしさ”を排出し、共有することで、じぶんのうちがわの問題とあらためて向きあい、冷静に客観的にじぶんを俯瞰する。参加者でもないのに、みなさんの作品を読むことでわたしはわたしの抱えている色々、について、「こう思っているんだ」という感情を整理することができた。とっ散らかっていたうちがわがきれいになってくれた。だから、『プリズム』を読ませてくださってありがとう、と言いたいのだ。

 書くのならば一首評というものをすべきなのだろうけれど、わたしは評ができないので、各作品については"感想”を書かせていただきます。(敬称略)
 あくまで主観のため、よみ違いなどがあるかと思いますが、ご容赦ください。

 

思い出と呼びたくはない永久の記憶を抱え今日も旅する
/永峰半奈

過去の記憶を“思い出”として、うつくしいものとしてしまう風潮が世の中にはあるように思う。つらい経験を、「むしろ 経験できてよかったね」と言われて傷ついたことがある。この歌のとおり、「思い出と呼びたくはない」のに。
これは、やはりくるしみを経験したことのない人にはわからない感覚なのだと思う。
しかし、消えない永久の記憶を抱えながら、今日といういちにちを生き抜いてゆかなければならない。その強さが手のひ らから伝って、じわりと胸の奥が熱くなった。

 

明日は雨 ひどい頭痛の前触れに可憐な雲は笑って過ぎる
/知己 凛

天気が崩れると頭痛など、からだの不具合が出てくる。その前触れとなる雲の可憐なかたちは、なにも知らない顔をしている。憎らしい、でも愛らしい。それは周囲にいるだれか、にたいしても抱く感情で。憎しみと愛しさは紙一重で、わたしはとくに家族にたいしてそれを感じる。なにも知らない顔で、笑っていて、わたしのくるしみやさみしさなんてわかっていないくせに。それでも完全に憎むことができない。それはそれで問題なのだけど。
頭痛を予感しながら見上げたそらの、湿った青に浮かぶ雲に、作者は癒されただろうか。癒されていてほしい、と思った。

 

そこじゃない
そこじゃないって
かゆいとこ
言えちゃうことが
とてもしあわせ
/西巻真実

「かゆいとこ」ってどこだろう。わたしにとっての「かゆいとこ」とは。
それをすなおな心で言えてしまえる、無垢さと透明感。「しあわせ」の言葉を奥歯で噛みしめながら、二度、三度とよみかえす。わたしのすなおな心はどこにいってしまったのかな、また取り戻せるのかな。やりなおすことはできるだろうか、「とてもしあわせ」と言える日が、いつか来てくれるのだろうか。

 

殺そうか 朝に6つ、夜に4つのたましいを延命させる悪徳を知る
鈴木智子 『我思死』より

延命が、あるいは悪徳になりうることを、それを残酷だと一般的にはいわれていることを、知っている。生きてゆくことをやめることは、そんなにわるいことなのか。生きていることそれ自体が、とてもとても困難なのに。拠り所のないたましいの置き場所をしりたい。もしくは、置き場所をつくりたい。わたしがずっと願っていることだ。

 

欲しいのは力ではなく なにげなく目覚めてそれが朝といふこと
/Nanami 『払暁の詩』より

ほんとうに欲しいものは、ときかれたとき、わたしならなんとこたえるだろう。目がさめて、ごく当たり前に朝が来ていること。それは幸福で、あるいは、残酷なことなのかもしれない。
払暁とは、明け方のこと。連作のタイトルとして掲げられたこの言葉は、新しく迎えるきょうという日への、失望と、かすかな希望をかんじる。その希望が、いつか失望の割合を埋めてゆくことをせつに願う。

 

くすりに頼るなと言うひとの眼がきれい 空 それは死ねってこと
/阿久津歩 『Borderline/1』より

わたしも処方されたお薬をのんでいる。十年以上、毎日。服んだことのない人にとって、それは甘えと取られるのかもしれない。お薬というたすけを借りているだけなのに。
無意識の言葉に傷つけられてきた経験は、けっして消えない。
なにかを言ってきた人の眼の、とてもきれいなことも。

 

南方へまだ渡らない鳥たちがときおり配る朝のイメージ
/西巻 真 『ピカソの森』より

まだかえらない鳥たちの影。爽やかな朝、という景をわたしのまなうらに焼きつけてゆく。
朝とは希望。そして失望。あるいは。
鳥たちの自由さに憧れつつ、ヒトとして生きなければならないくるしみと、よろこびについておもう。
わたしたちもきっともっと自由に生きていってよいのだ。

 

息が上がるテンション上がるあてんしよんぷりーずそののちロンリーガール
/とわさき芽ぐみ 『ワクワク☆ドリーム~アンパンマンの右脳はどこよ?~』より

わたしは鬱状態より躁状態のほうがおそろしいと思っていて、まさに「息が上がるテンション上がる」状態は、経験のしたことのない人にはきっと理解できないこと。「あてんしょんぷりーず」、気をつけて、気をつけて、生きていても、どうにもならない行動をしてしまう。それが、とても怖い。
色々を失ってしまって「ロンリーガール」、わたしも、おなじ。

 

(掲載なし)
/内山祐樹

歌を詠めないとき、わたしは無力さをかんじる。ようやく短歌といううつくしい表現媒体を手に入れたのに、それを手にして途方に暮れているような心もとなさをおぼえて、焦燥感に囚われる。
それは病気で臥せっているときのさみしさと似ている。
排出したいのに、できない。そんなくるしみは、短歌をつづけてゆくうえで避けらないことでもあると思っている。
詠めないときは、わたしは無理に詠もうとせず、すこし短歌から距離を置く。そうすることでまた自然と歌をうたいたくなる。
コンスタントに詠めればよいわけじゃないのだということに、さいきん気づきはじめて、すこし心が軽くなった気がするのだ。

 


『プリズム』を読んで、わたしはまた生きてゆくちからをもらいました。こんな拙い文章で申し訳ありませんが、どうしても感想を書きたかったのです。
わたしは短歌によって救われた一人です。これからも短歌をつづけてゆきたい。短歌を通して色々なことをまなびたい。
『プリズム』がどうか、多くの人の手にふれ、一人でも多くのさみしさを抱えているかたの元に届きますよう、祈っております。
ありがとうございました。

leave me tender.

 かなしいことは絶え間なく押し寄せて、そのたび呼吸ができなくてくるしくて、水面を見上げながらしずかに沈んでいっているようなそんな心地で、でも日々は流れていってわたしは、生きていて、生きて、生きているのだ。
 なんとなくタバコをやめてみようかなと思ってきょうは午後からずっと吸わないでいる。iQOSに切り替えたら吸う、というより摂取、というかんじがして具合がよくなかった。これならばむしろ吸わないほうがよいのではないか。父は禁煙外来に通って禁煙をした。わたしはこのまま、フェードアウトするように卒煙できればいいね。もうタバコなんて流行んないんだよねっておもえばひどくさみしいけれど(わたしが若いころに憧れていたあの人やあの人もみんなタバコをやめてしまった)、なんというか、しようがないんだよね。
 かなしみやくるしみは波となって、寄せてはかえしてをくりかえすのだとつくづく思う。ここさいきんの波はおだやかで、足首を浸すていどに、やさしい。残酷なやさしさだとおもう。しぶきがきらきらとしてきれいだ。水平線の向こうには小島があって、そらにはカモメが飛んでいる。波がどれだけやさしくとも、わたしはいつも泣いてしまう。息ができなくてくるしくてさみしいと言って。それでも一人でいるしかないのだということも理解している。だからなおさら、かなしいのだね。
 もうじぶんでじぶんの居場所を、つくったっていいんだよっていうゆるしを、わたしはずっとずっと待っている。

これから

 短歌をつくるのも小説をかくのも写真を撮るのも、じぶんを満たしてあげたいという欲求からくるエネルギーなのだとおもった。電車に乗る。街に出る。はなやかで健全な生をいきているひとびととすれちがう。幾度も。そのうしろ姿をぼんやりと追ってしまう。ああなりたかったとおもうじぶんがいる。ああ生きてみたかったと泣きたい気もちになる。わたしは人を羨んでばかりいて、むかしから変わらず、もう大人なのに、いいとしをこいて、まだ足りないところを埋めたがっている。
 じぶんを満たすということが、短歌や小説や写真で、できることなのかはわからないけれど、すくなくともとてもたのしくて、わくわくする。わたしはこれがすきなのだ、と思えるものをひとつでもふたつでも持っていることはとてもつよい。すき、のエネルギーはすごい。すき、とおもうもののためならばなんだってしてしまいたくなる。わたしにとってそれは短歌や小説や写真なのだった。

 朝、目がさめて、カフェオレを飲みながら、これからのことについて考える。ことしは短歌をいっぱいつくりたいし、いろんな景色を写真におさめたい。小説もかきたい。俳句にふれたい。なんだ、これからに期待しかしていないや。わたしは案外と、能天気なのかしらん。しかし「すき」を追うということは、じぶんを満たしてゆく行為というものは、途方もなくて、よいものだな。なにを目指しているのかなどといまはかんがえないし、きっとなにも目指していない。わたしはわたしを満たしてあげたい。たぶんただそれだけのこと。

沈殿と浮遊

 「フラットな“無”ですね」とDr.が言って、それですねと私はかえした。月曜日のこと。

 無と言われればなるほどたしかにそれである。そしてあたまは(ありがたいことに)ニュートラルでフラットだ。ばかなことをしない。極めて静かで、沈着で、無である。
 なにもしないをしている日がつづいていた。いる。現在進行形で。起きて、インターネットを見て、あとは天井を眺めて過ごす。ほとんどベッド上の生活であるから入院しているのとさほど変わらないのではないかと思う。入院をしたことがないからほんとうのところはどうかわからないけれど。スマホとパソコンが使えるという点はたすかっている。時間を塗り潰す必要が、いまの私にはあるから。
 起伏がなければ変わり映えもない日々は、彩られることなく過ぎてゆく。十月が終わりそうで、それでも私は夏のあの日から変わらないまま。
 動かないから溜まってゆくエネルギーが、よぶんな肉に変わるのを、うっとうしく思うけれどなにもできず、でもヨガでも再開しようかしらん、それとも朝の散歩をはじめようかしら。とにもかくにも体はすこしでも動かしたほうがよいはず。できなくともせめてレコーディングだけでもしようとノートにその日たべたものを書きつける。不要に思えるエネルギー、これいらなくないか、でもくちにしてしまうのはきっと私のこころが“無”であるから。

 “無”のすき間にかすかなひかりのようなものが差しこんで、その間隙を縫っていろいろをする。生活をととのえるための色々を。日記も書いてゆければよいな。日記になっていないけれど。

テンダー

やがて熱はおさまり、しだいに冷えていく肌を持て余しながら、茫然と朝の光を浴びる。秋のものへと姿を変えたそれに身を浸して、こ洒落た流行りのミュージックなどを流し、ときおり、水たまりが波紋を拡げるように過去が存在感をしめしてくる。弱々しく、頼りのないそれに、けれど私は抗えず、ひたすらにジッと体をまるめてすべてをやり過ごす。時間が過ぎていくのを。このままゆるやかにフェードアウト、などといった幻想をゆめみながら、現実はつづいていくことへの甘い絶望。

白けたまなざしで、晴れあがった空を見る。洗濯機から出したばかりのバスタオルは水をふくんで重たく、柔軟剤のよい香がした。こんなに晴れ渡っているのに私のうちがわは長雨がつづいているように、外に出られずにいる。

 

みどり

 夜明けまえの覚醒が連れてきた心細さを、珈琲でもって咽に流しこむ。体の不具合さはあいかわらずで、布団を被ったていで額のまん中あたりはかすかに痛むよう。手持ち無沙汰にスマホを開いて鮮やかな世界を指でなぞれど、液晶に浮かび上がったキャラクタが右へ左へ、そのさまは可愛らしいけれどどこか居心地の悪そうな気配さえかんじる。
 私はフィクションの世界を愛しているからキャラクタにはなんの罪もなく、私は私の頼りなさに心底まいってしまっているだけでそれがかれらに飛び火するのはあまりにもかわいそうというものだ。画面を閉じて文庫本を開き文字に目を落とす。本はあたまの余白を埋めてくれるから良いものだな、ということをつくづくと思うきょうこの頃です。
 本を手作りしてみたいという欲がずい分むかしからあるのだけれど、欲求がかたちになったことは過去に一度しかなく、不完全な燻りを絶えず心の奥に忍ばせたまま年月ばかりが経っていた。誰かに何かを届けたい、という思いより、ただ私が私を満たすために必要なのはそれその一点、しかないように思う。いづれ何かが何かしらのかたちになればよいと思いつつ、パソコンを睨みつづける毎日です。

 川上未映子新訳の樋口一葉たけくらべ』がとてもよかった。身の切れるほどの哀切が手のひらからしみじみ伝い、美登利が正太に投げつけた言葉のぜんぶが痛く、ひどくくるしい。人はなぜ大人になるの、わたしはわたしの内側で、ずうっと遊んでいたいのに。ふいに川上未映子『乳と卵』の緑子が、美登利と重なりハッとする。久しぶりに『乳と卵』を開いてみたらば、美登利とおなじくして女となることへの拒絶としんどみに震えている緑子の姿があって、ああ、なるほど、とみょうに納得のいったそんな思い。

nikki;飽和する

 私に関わった人みんな、なに一つかなしい目に遭わずやすらかに生きていってほしいと願う反面、なぜ私の周囲の人々はこんなにも皆自分勝手なのだろうかと、憤りで体の内側が爛れていくのを感じている。とはいえ、私の世界はごく 限られた空間でしかなく、その狭い世界で手足をめいっぱいに伸ばして必死で身動きをとろうと模索している私は至極こっけいというものだろう。私を俯瞰する私、という、ティーンが思いそうなことをこのとしになっても考える阿呆、 けれどその私を俯瞰している私、を俯瞰している私、を俯瞰している私、と、幾重にも重なった私という層はしだいに薄く変化し明度を下げてゆき、果てに消えてなくなればよいと願っているのもまた事実なのである。
 現実という厚みは私にはどうにも重すぎて、背後で閉められた戸の冷たさに背骨が軋んだ。わりに冷静なあたまでぜ んぶを受け容れ、噛みしめ、嚥下したのちに吐き出したため息。ステアリングが手のひらに伝える震動、夜道を照らすヘッドライト。自転車に二人乗りした若い男女に吐き棄てられた罵詈、を、見ないように見ないように前だけを見つめて。ともかくぶじに自宅に辿り着くことだけを考えながら私は、夜の閑散とした道路を滑ってゆく。
 秋の夜道に虫の音と、どこかからの金木犀の香が漂いすこしばかりの癒し。アパートのドアを開けて煙草と珈琲で一 服、ベッドに横たわってスマホを開けば彩りばかりの世界、に、しばし浸る。現実が遠ざかる。それでよかった。
 本を数行読んで、なにもあたまに入らないことが苦痛でそっとページを閉じれば表紙に批難をされている気がしてクッションの下に押しこんだ。冒涜。なにも考えたくなかった。ただじっとりとしたかなしみだけが背中に貼りついていて痛いほど、それは血が流れているからというだけかもしれないけれど。鎮痛剤を飲んで電気を消した。まだ二十一時だった。なにも考えたくないなにも見たくないときはゆめの世界に行ってしまうのがよい。私はめったにゆめを見ないけれど、それでも、現実から完全に意識を切り離す術を私はそれしか知らなかった。眠る。眠って、眠って、眠って、アラーム。緊急を伝えるような心臓に悪いアラーム、いつの間にか明るくなっていた部屋を見廻し、近眼の目にはすべてがぼやけている。何の輪郭もさだかではない。眼鏡。あまり意味をなしていない眼鏡をかける。ようやく視界が一つひとつのものにラインを与える。世界はもう朝だった。静かで、けれどすぐに騒々しくなるのだろう朝。私の背中にはきのうの名残り。体を引きずってキッチンで煙草を吸った。空白のあたまが現実を吸いとっていく。苦味が舌の上に拡がって、今は、紛れもない朝だった。