これから

 短歌をつくるのも小説をかくのも写真を撮るのも、じぶんを満たしてあげたいという欲求からくるエネルギーなのだとおもった。電車に乗る。街に出る。はなやかで健全な生をいきているひとびととすれちがう。幾度も。そのうしろ姿をぼんやりと追ってしまう。ああなりたかったとおもうじぶんがいる。ああ生きてみたかったと泣きたい気もちになる。わたしは人を羨んでばかりいて、むかしから変わらず、もう大人なのに、いいとしをこいて、まだ足りないところを埋めたがっている。
 じぶんを満たすということが、短歌や小説や写真で、できることなのかはわからないけれど、すくなくともとてもたのしくて、わくわくする。わたしはこれがすきなのだ、と思えるものをひとつでもふたつでも持っていることはとてもつよい。すき、のエネルギーはすごい。すき、とおもうもののためならばなんだってしてしまいたくなる。わたしにとってそれは短歌や小説や写真なのだった。

 朝、目がさめて、カフェオレを飲みながら、これからのことについて考える。ことしは短歌をいっぱいつくりたいし、いろんな景色を写真におさめたい。小説もかきたい。俳句にふれたい。なんだ、これからに期待しかしていないや。わたしは案外と、能天気なのかしらん。しかし「すき」を追うということは、じぶんを満たしてゆく行為というものは、途方もなくて、よいものだな。なにを目指しているのかなどといまはかんがえないし、きっとなにも目指していない。わたしはわたしを満たしてあげたい。たぶんただそれだけのこと。