沈殿と浮遊

 「フラットな“無”ですね」とDr.が言って、それですねと私はかえした。月曜日のこと。

 無と言われればなるほどたしかにそれである。そしてあたまは(ありがたいことに)ニュートラルでフラットだ。ばかなことをしない。極めて静かで、沈着で、無である。
 なにもしないをしている日がつづいていた。いる。現在進行形で。起きて、インターネットを見て、あとは天井を眺めて過ごす。ほとんどベッド上の生活であるから入院しているのとさほど変わらないのではないかと思う。入院をしたことがないからほんとうのところはどうかわからないけれど。スマホとパソコンが使えるという点はたすかっている。時間を塗り潰す必要が、いまの私にはあるから。
 起伏がなければ変わり映えもない日々は、彩られることなく過ぎてゆく。十月が終わりそうで、それでも私は夏のあの日から変わらないまま。
 動かないから溜まってゆくエネルギーが、よぶんな肉に変わるのを、うっとうしく思うけれどなにもできず、でもヨガでも再開しようかしらん、それとも朝の散歩をはじめようかしら。とにもかくにも体はすこしでも動かしたほうがよいはず。できなくともせめてレコーディングだけでもしようとノートにその日たべたものを書きつける。不要に思えるエネルギー、これいらなくないか、でもくちにしてしまうのはきっと私のこころが“無”であるから。

 “無”のすき間にかすかなひかりのようなものが差しこんで、その間隙を縫っていろいろをする。生活をととのえるための色々を。日記も書いてゆければよいな。日記になっていないけれど。