nikki;飽和する

 私に関わった人みんな、なに一つかなしい目に遭わずやすらかに生きていってほしいと願う反面、なぜ私の周囲の人々はこんなにも皆自分勝手なのだろうかと、憤りで体の内側が爛れていくのを感じている。とはいえ、私の世界はごく 限られた空間でしかなく、その狭い世界で手足をめいっぱいに伸ばして必死で身動きをとろうと模索している私は至極こっけいというものだろう。私を俯瞰する私、という、ティーンが思いそうなことをこのとしになっても考える阿呆、 けれどその私を俯瞰している私、を俯瞰している私、を俯瞰している私、と、幾重にも重なった私という層はしだいに薄く変化し明度を下げてゆき、果てに消えてなくなればよいと願っているのもまた事実なのである。
 現実という厚みは私にはどうにも重すぎて、背後で閉められた戸の冷たさに背骨が軋んだ。わりに冷静なあたまでぜ んぶを受け容れ、噛みしめ、嚥下したのちに吐き出したため息。ステアリングが手のひらに伝える震動、夜道を照らすヘッドライト。自転車に二人乗りした若い男女に吐き棄てられた罵詈、を、見ないように見ないように前だけを見つめて。ともかくぶじに自宅に辿り着くことだけを考えながら私は、夜の閑散とした道路を滑ってゆく。
 秋の夜道に虫の音と、どこかからの金木犀の香が漂いすこしばかりの癒し。アパートのドアを開けて煙草と珈琲で一 服、ベッドに横たわってスマホを開けば彩りばかりの世界、に、しばし浸る。現実が遠ざかる。それでよかった。
 本を数行読んで、なにもあたまに入らないことが苦痛でそっとページを閉じれば表紙に批難をされている気がしてクッションの下に押しこんだ。冒涜。なにも考えたくなかった。ただじっとりとしたかなしみだけが背中に貼りついていて痛いほど、それは血が流れているからというだけかもしれないけれど。鎮痛剤を飲んで電気を消した。まだ二十一時だった。なにも考えたくないなにも見たくないときはゆめの世界に行ってしまうのがよい。私はめったにゆめを見ないけれど、それでも、現実から完全に意識を切り離す術を私はそれしか知らなかった。眠る。眠って、眠って、眠って、アラーム。緊急を伝えるような心臓に悪いアラーム、いつの間にか明るくなっていた部屋を見廻し、近眼の目にはすべてがぼやけている。何の輪郭もさだかではない。眼鏡。あまり意味をなしていない眼鏡をかける。ようやく視界が一つひとつのものにラインを与える。世界はもう朝だった。静かで、けれどすぐに騒々しくなるのだろう朝。私の背中にはきのうの名残り。体を引きずってキッチンで煙草を吸った。空白のあたまが現実を吸いとっていく。苦味が舌の上に拡がって、今は、紛れもない朝だった。