沈殿/黙する

 いにしえのブログぜんぶ消しちゃったし日記も引っ越しの際にすべて燃やしたから当時のじぶんが何を思い考えていたのかなにもかもを忘れてしまったけれど、あの時の感覚とか感触がふと甦ってきて茫然とする時がある。殺した気でいたけれど、死んでいなかったんだなと思う。ゆうれいをカメラが捉えた時ってこんなかんじなのではないかしら。輪郭はぼうっとおぼろで触れることはできないけれどたしかに、これ、映ってるよね、って。存在しているよね、って。
 そんなふうにして茫然としつつも、時間は過ぎてゆくし体は勝手に老いてゆくし過去は遠ざかっていってそのうちに、いつか見えなくなってしまうのだろうけれど、肌の底の底、内臓の奥の奥にしみついた色々、は、ずっと褪せずに永遠に存在しつづけて、とうとつに目を開くからその眼光の鋭さにびっくりしてしまう。
 かれらかのじょらは死んだわけではなくて眠っているだけなのだ。目を閉じて、ふかい眠りの中にいるだけなのだ。体の奥底に沈んだそれらを起こさぬように私は日常をそろりそろりとやり過ごす。それでも目をさましてしまうのだから人の赤子よりも厄介である。何か、動物的なアンテナを張っているようにしか思えない。しかたがないから一つのいきものとしてかれらかのじょらを愛することに決めた、これはいつかの話し。

 25年以上も生きて、未だにかつての色々、に、煩わされていることに失望する。そしてそれをこうして文章にしていることにも。何も考えずに思うままに打っているから、幼稚さに笑えてくるけれどこれが今の私の精いっぱいなのです、とも。私には才がない学がない、じぶんの思うままにじぶんの言葉で、こう思ったああ感じた何がつらいこれがくるしいあれがさみしい、を、書いてゆくしかないのです。原文ママ

しにゆく

 傷つけると知りながら、傷つけるようなことを言って、傷ついた顔を見て、傷つく、というのを、たぶん一生くりかえして死ぬ。

 

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 一秒一秒夏の死んでゆく様を、網戸越しのこちらから眺めている。氷を浮かべたアイス珈琲は苦くて飲んでいるとくちの中に膜の張ったような心地になりあまり、具合がよくない。わかっているのに飲むのをやめられないのは長年の癖のため。
 ベッドはぬるく、寝心地が悪かった。いつのまにか背中には、じっとりと汗が滲み、それでも起き上がれずに長い時間を過ごしている。
 遠雷、夕立ち、草の匂い。蝉の泣き声。深く息を吸い、長く息を吐く。そうしなければ呼吸ができなくなっていた。夏の死に様を見守りながら、じぶんも死んでゆくようなそんな心地で、でも実際は生きつづける、――次の夏も、その次の夏も。

 

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 よく熟れた桃の皮を、包丁でもって剥くのはよくないけれどうまい剥き方がわからないから強引に刃を立てる。あまい果汁が滴って膝を濡らす。皮と果肉のあいだに、そっ、と刃を差し入れて、皮のめくれた隙に指で摘んでぺらりと剥がす。桃の球体はいびつに崩れ、指の添えている箇所がへこむ。醜くかたちを変える様に嫌気が差して、まだかろうじて球形を保っている果実をくちに運ぶ。唇の端から果汁がこぼれる。頬を、顎を汚す。薄紅いろの果肉はあまく、つめたい。

 

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 急激に心が冷えてゆくのを感じながら、どうしようもなさに面影ラッキーホールを聴く。「あたしゆうべHしないで寝ちゃってごめんね」「おみそしるあっためてのみなね」がすきだ。さいきんのものでは「ゴムまり」なども。
 何か書かんと思ってパソコンを開けたけれどちいとも頭がはたらかないから、お昼間にスマフォで打っていた文章を原文ママ

私だけが知っていればいい地獄

 まだ暗い、けれど朝と呼ばれる時間は静かに過ごせて好い。雨粒の弾ける音がする。鼻の奥を抜ける薄荷のにおい 。ひみつきち。積み本の中から引き抜いた一冊。ページをめくるゆびさきには淡い色。すきないろ。またたいて、きれい。

 恋はするものじゃなくて落ちるものなのだときいた。知っている。私は恋に落ちたことはない、――気がする。
 人の気配のない世界、きっとまだ皆んなねむっている。私も眠ってよかったけれど、目を瞑るとまぶたのうらでちかちか、光が爆ぜる。うっとうしくて目を開ける。蛍光灯。あかり。光。むかしすんでいた街のことを思いだして、すぐに忘れる。過去の私には戻らない。

 誰でもない誰かに憧れて、何でもない何かにひたすら焦がれて、生きてゆくのに疲れた、感がある。
 私は私でありたいし、私は、私にしかなれない。そんなことに気づく午前3時、学びと気づきはたいせつだね、ありがと、もういいかな。

 目のまえにあるものを慈しむことしかできない、それしかできない、それを精いっぱいやろうと思った。死ぬことより生きることのほうがらくな気がする。私は怠惰だかららくな道を選びがちだ、でも今のこれは、きっとまちがいではない気がする。

 海を見にゆきたい、人のいない海が好い。べつにいてもよいけれど。身投げしたくなるほどの静かな海で、波打ち際で水とあそびたい。

 夏が始まり、夏が終わってゆく。季節のうつろうたびに心臓が痛む。これをあと何回もくりかえす。いつかきっと心がしぬまで。

わたし達の共通項は孤独

 性欲を孕んだ愛を根本的に信頼していないくせに一丁前に恋愛をしたがる。恋と愛に性欲は切り離せなくて、でもほんとうにそうなのかな、そんなものなくてもやってゆけるんじゃないかしら、とも思うから難儀だ。人生は難儀。けれどそうしているのはじぶんで。

 信じているのは家族や、数少ない友だちからの無償の愛だ。なにげない言葉や、ふとした時に送られてくるメッセージなど。みかえりを求めない愛にはみかえりを求めない愛を。注がれる愛情はいつしかコップからあふれそうで、あわてて容器の数を増やして対処する。受け容れられずにこぼしてきた愛が足もとに水たまりを作ってさみしそうにしている。何かのおりに水面がふるえる、波紋が拡がる、それを想い出と呼ぶことにして。

 なんにもいらないけど手を繋ぎたい、などと思う。傲慢と知りつつもいつかぜんぶが必要なくなるから、せめてその時まで生きること、が、わたし達の唯一の約束。死への希求が薄れた夜のわずかなすき間、薄荷のガムを久しぶりに噛んだ。

深夜高速

 午前四時のちょっと前に目が醒めてから、ひどくかなしい気持ちでいる。ぼんやりと音楽を流しながら、頭の芯に頼りなく靄がかかっているのを感じた。寝不足で迎える朝は心細い。へやは、けれど私一人きりで、誰に頼ることもできない。尤も誰かがいたとして、その誰かに何かを言って寄り掛かれる気はまるでしないのだけれど。
 不調は、じわじわと体をおかしくしていく。その気配を感じるとおそろしくなるのだが、意思でどうにかできるものでもないことはじゅうぶんに理解できた。動かない頭と体でなんとか生活を明日に繋げて、日々を漫然と浪費していることが無力で、くるしくてかなしかった。

 ぼうっとしていると、むかしのことばかり思いだす。過去の、つらかったことや思いだしたくないことなど。頭の余白を塗り潰すようにしてそれらは、ひたひたと脳に満ちてゆく。
 若かった頃の私がまなうらにあらわれて、私は慌てて目を瞑る。当時の私は幼さゆえに傲慢で、今もばかだが今よりもずっとずっとばかだった。

 パソコンで流していたSuchmosが途絶えたので、私はカーソルを動かしててきとうに、フラワーカンパニーズのアイコンをクリックする。せつなげなギターのイントロが流れはじめ、「深夜高速」のメロディがかたちをなしていくのに耳を傾けた。新しい音楽も古い音楽も、よいものはいつ聴いてもよいなあなどと思う。私のパソコンに入っている音楽はこの数年でずいぶんと傾向が変わった。若い頃は特定のアーティストしか受けつけなかったのだが年をとってからは、いいな、と思ったものはすぐにCDを借りてきて取りこむようになった。8GのiPodには入りきらなかった曲たちが、HDDに溜まってゆく。それを眺めるのは、物質的なコレクションを眺めるような感覚があってすこし、たのしい。もちろんアルバムも買うのだが、いいな、と思った曲たちをすべて買っていたらとてもお金が足りないので、もっぱらレンタルである。それでもいくらかは満たされた気持ちになるのだから、私は大概かんたんで、安い女である。

 音楽はやさしい。過去の私から目を瞑った時、暗闇の中で手を伸ばせる唯一の存在だった。やさしい音楽であれば、もう、なんでもよかった。ねむたい、と、漠然と思った。頭も体も疲弊していた。豆乳を入れた珈琲をひとくち飲んだところで、往来で大きな雷の音が響いた。カーテンを細く開ける。

  夜は、いつの間にか明けていた。

オアシス

不自然に生きているな、と、ふいに思った。とうとつに頭に浮かんだその感覚を、一人でひっ下げておくのはなおのこと不自然な気がしたのでしたためる。これといって意味はないのだけれど。
へやは蒸していてひどく暑く、それでも椅子に坐った態で動くこともなくじっ、とパソコンを見つめている私は傍から見たら滑稽だ。手を伸ばせばすぐにエアコンのボタンを押せるというのに。朝に起きて、朝食にオートミールとバナナとナッツを入れたヨーグルトと、珈琲に豆乳を加えたものを食べたきりのおなかは、けれど消費カロリーがすくないためかあまり空いておらず、横着者の私は放置をつづけている。
横着者になったのはさいきんの話だ。何かをするのが面倒くさい。とりわけじぶんの世話をすることが。起床後につけたパソコンを、かれこれ4時間ほど見つづけているけれど、それは特段何かを見たいからではなく、ただただじぶんの世話をしなければならないという気持ちから目を逸らすための行為である。ひたすらに億劫で、何もかもが難儀だった。かろうじて顔を洗い、コンタクトレンズを入れたが、シャワーを浴びるという高いハードルは未だ越えられていない。へやはこの3日ほどでずいぶんと荒れ果てたし、整えていないベッドに、けれど夜は体を横たえて眠る。
鬱。と、そう言ってしまえばそれまでなのだが、だからなんだというの、という声も体の内側で響くから、私の頭はつねに混乱状態である。先日、ちょっとつよめのお薬を処方された。朝に一錠、のむように。へんな黄色のカプセルを、以来私は律儀にのんでいる。ほんとうはちいとものみたくないのだけれど、のまないと医者からも家族からも見放されてしまいそうで、それがこわくてのんでいる。じぶんのため、というよりも、じぶんを見守る周囲のため、といった心の按配に、私はたびたび辟易する。誰のための人生かといえば、私のためであるのに。
秒単位で更新されつづけるSNSから目を離し、私は、不自然に生きているなあ、と心の奥深くに言葉を落とした。きっとそれに意味はなくて、虚無を埋めるためだけの自己防衛的な働きしかないのだろうが、一言、不自然に生きているのだなあと呟くことで、何かこのままならなさがどうにかなってくれそうで、かすかに期待をしてみたい。と、そう思ったのだった。
暑さは時とともにじわじわと肌にまとわりつき、仕方なくエアコンのスウィッチを入れた。オフタイマーを2.5時間後に設定し、ゆるやかな冷風を感じたところでようやく私は煙草を吸うために椅子を立つ。